駆け抜けた青春時代

                      西村坦翠 エッセイ




 黄色く稔った穂波を越えて白い筋を引き、はるか築豊炭田のボタ山がかすんで見える。

 北九州の高い峯、福知山(約900メートル)の頂上から望んだこの風景は、大東亜戦争に突入して間もない昭和17年、既に全土が要塞化されカメラなどには収められない時代だったが、確かな目のレンズから記憶の中に収録された風景描写である。

 戦前中は国家主義のもと思考も観念づけられ今から見れば曲げられたものであったとはいえ戦後の小説、映画、テレビドラマ等で見る我々の年代の青春像はあまりにも暗い陰惨な青春時代だったように誇張されすぎているように思える。

 食べるもの、着るもの、すべて統制され、言論も抑圧され制限され、けっして明るかったとは言えないまでも、空には今も変わらぬ太陽の輝きがあり、緑の山々があり、青い海があり、それはそれなりの価値観を持ち青春の楽しさがあった。

 昭和17年といえば、まだ緒戦線での連勝に国民が湧きたっていた時である。山登りや旅が好きで今でも暇を見ては旅するが、山登りは体力の減衰で今はもうできない。

 その頃勤務先で気の合った友とふたりきりで、休日を利用しては中国、九州の山々をめぐって歩いていた。青春の一頁として強く心に残るのは遭難寸前の出来事である。

 日帰りの予定で、朝早く関門海峡を渡り当時八幡市の大蔵というところから、洞海湾がよく見える山道を歩き八幡河内水源地のそばを通り抜け、通称尺ケ岳一名雲取山(約600メートル)に登って、それから尾根づたいに次の福知山を縦走した時である。食糧をつめこんだリュックを背に、ピッケル、登山帽、登山靴らしいものをはき。当時としては一人前のスタイルで、秋たけなわの山のオゾンを胸いっぱいに吸いながら、予定していた午後2時頃だったろうか福知山の頂上に足を印した。「そこに山があるから」とたれかが言ったが。苦労して頂上を極めたとき、或いはあるものをつかみ得た時、何にでも通じるだろうが、山の頂上に立った時の気持ちは何とも例えようのない気持ちになるものだ。

 よく晴れて遠く阿蘇、雲仙もかすかに望め、最初に書いた景観を眺望しながら自称文学少年だったふたりは、詩を書き、スケッチを楽しんだ。

 夜8時か9時頃まで下関に帰り着く予定だったので3時半頃下山を始めた。当時は東小倉鉄道といった軽便鉄道だったが、今は国鉄日田彦山線になっている採銅所という駅まで出るコースで下山にかかった。だが途中でどうも道を間違えているらしいことに気付き、元来た道を一応引き返そうとしたが、雑木林の中で道などなく、そろそろ秋の陽は傾き心細くなり、何とかしなくてはという気持ちはあせる。

 水の音をたよりに下ったほうが良かろうということになり、万一の時のことを考え飯盒にお米をとぎ、水を一杯入れてさげ水の音にそって歩いた。つるべ落としの秋の夕はすっかり暮れ、懐中電灯は持っていたが、時計の針も7時8時と過ぎ、どの方向にどれぐらい下りたのかもわからない。日帰りの予定なので食糧は少し余分に持っていたものの至って軽装備である。夜露は容赦なく降りてくる。もう5時間はたっぷり歩いている。疲れた体で空を見上げると、晴れた夜空に星が無数にきらめいている。いつか水音とも離れたらしいが、まだかすかに耳に入る水音から察するとどうも谷のような気がする。

 相談の結果この上はもう致し方がない。野営と決めた。全くの露営である。天幕はなく合羽は用意していたのでそれを敷き、持っていた雑誌や紙類に火をつけたき火をしようとするが、夜露で湿って燃えない。煙りで涙はでるし文字通り泣いているようだ。やっと燃えた火に、飯盒をかけ炊いたものの充分に入れておいた水も、さげ歩く途中少なくなり、おまけに火はよく燃えないときたから、炊き上げた飯は食べられたしろものではない。それでも背に腹はかえられぬと昼の残りの缶詰めで一応腹ごしらえはできたが、寒くて寒くてたまらない。すぐ近くで鳥か獣かわからない声がする。がさがさ音がする獣は火に弱いということを聞いていたので燃えない火でも絶やされない。ふたりでハーモニカを吹き、唄を歌って淋しさ、怖さを払おうとする。交代で横になってみるが寝られるものでもない。それでも疲れて少しまどろんだか、やっと夜明け近く東の空が白みかかって来た。

 夜がすっかり明け陽が上り始めるとやっと人心地がついた。もう一度自分達の居る場所を確かめると昨夜何となく感じたことがそのまま的中していて、それから数メートル先は谷で深い緑に覆われていた。ぞっーとしたがこれこそ天の助けだったとふたりで抱き合って喜んだ。残りの飯を口に入れもう一度頂上へと道をとり再び頂上から新たな道をとって、やっとのことで帰着した。あのままがむしゃらに歩いていたら本当に遭難していたであろう。

 だがそこにも青春のロマンがあった。今の若い者はと、その時代にもやはり年長者に言われたことは勿論である。その後それにも懲りず九重、阿蘇、霧島と三泊四日で野営しながら強行登山をしたことや、雨に濡れながら山道をほっつき歩いた等々。

 間もなく苛酷な戦況へと移り始めた。ほんの短い青春時代を明日をも知れぬ戦時中の若者は、軍歌や叙情詩を口ずさみながらそれなりに青春を楽しんでいた。少なくとも私には底から偽られた青春だったとは思えない。

 やがて戦争が終わって見れば友は南方で戦死し、ふたりで歩いたころの記録も下関の空襲で皆灰になってしまっていた。亡き友と日本アルプス踏破や、富士登山などを夢見ていたがそれも本当に夢となり果たし得ず、それっきりぷっつりと山登りもやめた。

 戦後の苦難時代をご多聞にもれず、あえぎながら時流にもまれて泳ぎ、短かった青春時代は駆け抜けるように去っていった。

 今は追憶のみが、若かりし日々をかけ巡っている。





私家本 『水の如く』より





 

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