NEO-J










                      


『NEO - J 1』

僕はこの10数年、プロのミュージシャンとして音楽活動をしてきた間、日本の文化や自分のアイデンティティーという事についてとにかく深く悩んだものだ。このコラムを書くにあたって、自分なりに思う日本文化についてまた、日本人というものについて僕なりの考察を誰かに伝えることができたらと思う。 時代はすでに21世紀。子供の頃手塚治虫の漫画で見た未来の風景やスタンリー・キューブリックの映画に出てくる21世紀の様子を僕は漠然と夢想していたものだけど、思ったほどではないなと思うことや、やっぱり21世紀だと感心する事など、感慨深いものが色々あったりする。感心する事といえばやはりITテクノロジーだろう。かくいう僕もこの原稿は音声認識ソフトを使って喋りながら書いて(?)いる。デスクへの受け渡しはもちろんE−mailである。この技術無しではおそらく僕の様な筆無精人は、この様なコラムを執筆することはできなかっただろう。まさにコンピューター様々である。文化を支えるのは実は精神ではなくテクノロジーだ。人間の精神生活はおそらく何千年も以前からそれほど違いはない様に思う。恋愛をして、音楽を楽しみ、神を求めて嘆き…。時代とスタイルは変われど人間のすることはそれほど変わらない。



『NEO-J 2』

日本は現在大きな変革を求められている。経済と教育は表面的には変革の中核となるニ本の柱だろう。しかしそれは物事の表面にすぎず、本当に我々が直面している問題とは、敗戦によって失ってしまったアイデンティティーにある。アメリカがあのように強大な本当の理由は、あの国を支えている『魂の自由』というプロテスタントの理念を貫いていることにある。第二次世界大戦とはまさに『自由』対『非自由』の思想がぶつかったのであり、単なる<国とり合戦>のような戦いではなかったと考えている。『自由』の思想は勝利し『非自由』の思想は悪魔の思想であるがごとくに敗退した訳だ。ところが戦後半世紀を越し日本はアメリカ型の『自由』の思想をそれなりに身につけたものの、ここに来て行き詰まってしまっている。もう一度この『自由』の思想について考えるべきではないだろうか。アメリカ人の言う『自由』の背後にはプロテスタント流の『神の思想』があるが日本人の猿まね的『自由』の思想には背後に何もない。どこまでいっても個人のヒューマニズムしか存在せず、それを超えるプロテスタントのような『全一的な思想』はない。ここに現在の経済と教育の荒廃のすべての起因がある。



『NEO-J 3』 

自由についてアメリカと日本の違いを前回書いた。すなわち神に保証された自由と個人の人間性しか持たない自由について。前者は神の前での人間の平等や、人類愛を基調とし、後者は自己と他者がどこまでもずれていく差異を基調としている。…どちらが美しいか一目瞭然だと思う。しかし神に保証された自由とは本当に有機的な思想だろうか?実際のアメリカ人は『自由な人 』というよりは『自由を求めている人』だ。ここで考える事は『自由とは何か』ということ。最高の権力を持つ者が自由かというとおそらくそうではなく、いろいろな物事にがんじがらめになっているし、大金持ちが自由かというと世の中には金で買う事のできないものもたくさんある。それらはせいぜいある条件の中での『自由』でしかない。ではいったい『自由な人』などと言う者は居るのだろうか。僕はインドを旅した際、聖者と呼ばれる人々に会った。彼等のもとには貧しい人も大金持ちも政治家も集まって土下座に近いような礼拝をしている。もしかしたら彼等だけが、<自由の意味>を知ってしまった人ではないだろうかと僕は思う。人間の存在の儚さや不自由さを悟った人にだけ人間が求めてやまない『本当の自由』は見えてくるのかも知れない。



『NEO-J 4』

前回、前々回と自由について書いた。結局は『完全な自由』はこの世には存在しないということ。戦前日本の非自由の思想の土台は実はここにあったと思う。ファシズムと一言で言っても、ナチス政権と疑似一神教の天皇制は大きく違う。似ているのは現在のイスラエルの情勢の様にユダヤ教もしくはキリスト教の自由の思想に反発した勢力だということか。イスラム教は神を代価する人間を認めない宗教だがどちらかというと非自由の思想を基調としている。彼らの現在の戦いは、エルサレムという聖地の取り合いではなく、やはりこの自由の思想に反発するところに賭けられている。そこで我が日本はどうだろう?アメリカ型のシステムを導入するにはこの自由に対する根本的感覚が違いすぎる。だからといって戦前の日本に戻すことに意味があるとも到底思えない。我々の現在の課題は新しい価値基準の創出である。戦前日本の価値基準を生み出したのは、我が長州の志士たちだった。吉田松陰の云う天皇が死ねと言うなら死ななければならぬ、といった思想は一つの価値ではあるし、和魂洋才は彼らの新しい発想だった。大切な事は自分達で新たな発想をし、意志と価値を世界の中で貫くことだ。それはやわなことでは無い…。



『NEO-J 5』

平和主義とは本当に良いことであり、人間にとって平和であることは『幸福な生存』の大きな要素であることは間違いない。しかし我々の日本の享受している平和は本当に健全なのだろうか? 私達の平和はアメリカの軍事力に完全に依存している。誰が見ても到底自主的とは言えない『奇蹟的な平和』はどこまで続くのだろう。現在の日本の平和に対する価値観の大きな間違いは軍事力を持たないことによって自主的な平和が保たれるという、『実際の現実とはかけ離れた価値観』が蔓延していることにある。こういった国家の姿勢はこの国の国民の多くに同じく見られる。例えば通りすがりの場所や電車の中で誰かが暴力に合っているとする。そこでいきなり仲裁に入るか弱い立場の人を助けようという人をあまり見かけない。僕の経験上多くの賢い大人は見て見ぬふりをするか、その場を素早く立ち去る場合が多いと思う。端的に言って日本の平和主義とはこういった種類の平和主義だ。いやらしく偽善に満ちている事この上ない…。こういった国家では陰湿ないじめも起こるだろうし正義の理念がどこにあるのか分からないおかしな人間が増えていくのも当たり前だと思う。愛すべき日本人よ、<現実感の無い夢>から目を覚まして欲しいね。



『NEO-J 6』

前回までわりと政治的な内容のことを書いてきた。ただのミュージシャンのくせにどういう訳で偉そうに政治の事など言っているのかと思われた方も居るかもしれない。しかし実は文化や芸術とはそのようなことを多分に含んでいるということ。僕の知ってるアーティストや尊敬する芸術家たちは自己の芸術表現の中に人間とはどう生きるべきかというメッセージを濃厚に込めている。文化や芸術を社会のいろいろな出来事や人間の生活を包括する政治と切り離して考えるとしたらそういう人を芸術家とは認められない。世界と遊離したところに人間の心を表現する芸術などありうる訳がないのだ。ただ政治と芸術との違いは政治とはどこまでも言葉の世界であり、芸術とは言葉を超えた世界である。しかしながら日本の政治家の多くは言葉を完全に捨ててしまっていて『言葉の世界の重さ』を引き受けない無責任な人間ばかりの様だけれど…。芸術とは言葉では言い得ない『なにものか』を表現する行為のこと。芸術家にとって<本当に言いたい事>は説明的な言葉では無くて、作品中でしか言えないものだ。



『NEO-J 7』

日本は多くの美しい文化や伝統を持っている。しかし日本文化の最も美しい繊細な部分は、意外ととらえづらい。世界のさまざまな文化のオリジナリティーと同じ位層で、日本のオリジナリティーをとらえるのは至難の業だ。日本のオリジナリティーとは、世界の文化のダイナミックなそれとは種類も質もかなり違うからである。古来から日本は外来の文化を巧みに取り入れることによって自らの文化を形成してきた。もし日本にオリジナルというものがあるとしたらまさに文化の取り込み方の巧みさにしかないであろう。僕は音楽家だが例えば邦楽が日本のオリジナルかというと決してそうではなく多くは大陸から流れてきた楽器やコンセプトを消化したものだ。また僕は書道家でもあるが、今だに17世紀前の中国の書を信奉してやまない姿は僕らがロックの巨匠やジャズの巨匠を今だに信奉している姿とまったく変わらない。だがこのオリジナリティーのなさは実はオリジナルであることの本質を突いているという逆転の発想もある。オリジナルとは本来の連続性とは違うベクトルのやはり連続や模倣でしかないと言う考え方だ。日本のオリジナリティーとは実は非常に凝縮された『オリジナルであることの本質』かもしれない…。



『NEO-J 8』

前回、日本にはオリジナルは存在しないと書いた。それは海に囲まれた風土からくるものだろうか。それともDNA的な民族の気質からくるものだろうか。僕はこの日本人的感性なるものの多くは風土から生まれていると考えている。風土以外の要素もあるが、それは特にその時代の宗教文化や為政者の思想の統制から生まれている。さて私達はもう21世紀に突入したが、この時代において風土から与えられる影響はある程度緩和されてくるように思う。IT社会の発達により情報も物質も世界のあらゆるものがひとつの場所で得ることができる社会においては土地の風土は人間の感性にだんだん影響を及ぼさなくなるのではないだろうか。そのような状況に置かれたときの日本人が、どのようなさらなる変化をするか大いに見ものだ。日本人のオリジナリティーの無さは『学ぶ』ということをすべてお稽古ごとにしてしまって発見することを忘れたせいであるが、IT、超高齢化社会、経済の疲弊など、人類にとって前代未聞の局面に日本は世界の先端を切って突入している状況で、昔ながらのお稽古ごと的な感性でこれらに対処することは不可能な様に思う。既成のモデルなど既に無い。我々は民族的感性のスイッチを切り替えて生き抜くしかあるまい。



『NEO-J 9』

早いものでもう最終回だ。文化について書こうと思ったところが、何やらやたらに政治的な内容ばかりなってしまった。以前書いた通り文化、芸術は多分に政治と絡み合っているが、よほど僕はこの日本の現状を憂えているらしい。この連載のタイトルにした『NEO-J』とはネオ・ジャパンの意味で日本の再生を願ってそんなタイトルにした。スタイルとしての日本ではなく、自分たちの手で新しい日本を創出したいものだ。そのような志しを持っている人がもし読者の方にいて、僕の小さなコラムがほんの少しのスパイスをその人に香り付けをすることができたとしたら非常に嬉しい。政治は混迷を極めているが、具体的な打開策をいまだに誰も創出していない。政治も含め物事がどんどん無意志で無意味な方向に進んでいるクラゲのような現在の日本にあっても僕は背骨のある人間として生きていたい。またこの国の文化も面白くはあっても魂を感動させない無意味なものばかりがあふれている。意味とは即ち生きていることそのものの意味だ。僕はこの意味を常に魂に刻んでいたい。

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