YUKIO MISHIMAをめぐる冒険




私は漠然とこのサイトに迷いこみながら、ぼんやりとした意見しか言ってないし、また言えないのですが、それは個人の心情の本音だけじゃなく固体を超えた処にあるリアリズム - 個が全に帰一する全(超越性)のリアリズム - にあの行為が触れてるからなんです。その側面から真面目に何故か?に 悩みの中にある自分の為にも今回に限り少しだけ挑んでみます。

戦中の半強制的な天皇へ集約するタナトスから逃れた後、三島は芸術で生きる事に成功しますが、いうまでもなく芸術は超越性と世俗の均衡の上に成り立ちます。金閣寺の青年は殺しても良かったと本人は語ってますが、戦中の国家的タナトスの成就に失敗した三島がここにダブってます。およそこのタナトスに吸引される事と離脱する事を繰り返す方法しか芸術家の生き延びる道はありません。

またもう一つの道が芸術の生を終え既成の宗教へ帰依するという抜け道です。自決の何日か前、戦後の右翼を排出した成長の家の谷口雅春に面談を予定しておきながら、それが叶わなかったというエピソードも残ってます。ワーグナーも晩年カソリックに回帰した事を確かニーチェに批判されたとかいう話しありましたか?ちょっとうろ憶えです。手許に本を全く置いてない為、正確な引用ができなくて申し訳ない。芸術を行為する者にこんな事はよくある事で自然な成りゆきですが、三島にそれは許されて無かった様です。

***さんの引用された「相反するものはその極地において似通い、お互いにもっとも遠く隔たったものは、ますます遠ざかることによって相近づく。蛇の環はこの秘義を説いていた。」というこの蛇は神道やアジア、特にインド起源の宗教における万物の生成、生殖の秘儀を象徴しており、この引用文のまま2体の蛇を図形化したものは神道において秘教的な重要な部分を担ってます。***さんの見解はほぼ正しいと思います。またこれに絡んで私が三島語録の中で最も難解だったのは、 -日本は緑色の蛇に噛まれている- という薄気味悪い言葉でした。特に(緑色の)とは何なのか? このトピを読み参加しながら漠然と気付いたのは天皇概念の三島の誤解は誤解では無くもちろん本質を捉えていながら、超越性への直な抜け道が、原始的アニミズムの型としての神道、天皇概念では閉鎖されており、この呪縛を原始的な型を引用しつつ突破する方法が、涅槃の儀式としての自決ではないか?という見解です。陽明学に心酔した三島が容器としての肉体の破壊により外気の無想の空間と融合する話を家族にしていたエピソードもあります。この涅槃への特異な方法論の実験こそ、自決の秘儀ではなかったか?
しかしここでまた解らないのは、涅槃たる絶対に到達したか?また本当にしようとする意志があったか?です。なぜなら ***さん引用の「絶対主義的なものを各巻で描いているんです。それが結果として最高の相対主義ーそれは唯識だと思うのですーに溶かしこまれて行くのです。」の言葉通り本人の最後も相対主義に溶けている、様にも見えるからです。行き先は天国かも知れないが涅槃の成就では無い様にもとれるのは、三島がしていた七生報告の鉢巻き、それから自決と豊饒の海2巻の完結との酷似、また当の本人が(魂の空白)の場所、豊饒の海4巻の寂寞とした庭のあの心の風景に巻き込まれてる様子さえ窺えるからです。また生まれる事を三島は渇仰している様にも見えるのです。 (七回生まれ変わっても国の為に尽くす) このあまりに日本的美意識に吸引され、涅槃のダイナミズムを自ら拒否したのか?という見え方もするのです。私は三島は生まれ変わっている様に思うんです。

ここに及んでまだ悟りの決意と距離のある三島が存在し、この微妙な曖昧さに芸術家のロマンティックな別の抜け道、則ち情死の本音を私は嗅ぎとる訳です。このかすかな揺らぎの中にはルサンチマンも存在すれば煩悩(生存欲求よりもっと繊細な想念)も凝縮されてる訳です。
生存欲求を断ち切ったからと言ってこれが抜けないからこその輪廻であり絶対なる場所への自己成就の得難さです。

天皇陛下万歳!を花々しく叫んだ(ここが涅槃実験部分)後の本人の独り言の様な呟きは、 
しかたなかったんだ(ここが本音)、、、、、、です。

仏像は日本製が一番美しいです。

惟識思想は本を読んで文章上の理解をしようとすると決して解りません。自己の精神から自ら無意識を抽出する作業を重ねて理解にいたります。
       
私は情死を賛美できませんがこの実験を賛美します。彼はまるでインド神話における太陽神の子 −カルナ− に何よりも似ている。

                 

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ここで問題になってるのは、日本人の民族的プライドや自意識の問題がありますが三島はここに民族の集合無意識を一点に統合する具体的な所在としての天皇を主張してます。この天皇制をどうするか日本人は答えを出せずにいるし触れるのをタブーにしてきました。外国の方が三島の死の論評を盛んで、国内では近年まであまり触れずにきたのはやはりこの理由からですか。メディアの天皇報道も今だに思考停止状態と言っても過言では無いでしょう。普段忘れてると突然原始の闇からふっと顕われるかの様です。

6、7年前三島の自決に私は興味を持ち関連の書物を読み漁り感銘を受けました 。3年前たまたま仕事の調べ物をしようと入った図書館の資料室でGHQの占領中のファイルや焚書した国家神道のタイトルリストなどに触れ、思想を封鎖するというリアリズムに初めて実感を持ち、戦後は生活に於いても思想に於いても自由な社会などと思いこんでいた私は、かなり衝撃をうけました。今だに引きずってるところがあります。

理由はこれらだけでは無いですが、私は思想であれ社会生活であれ(自由)なるものが存在するとはそれ以降あまり信用できなくなってしまいました。(自由の感覚)はあっても真の(自由)は地上のものではなく、どこまでいっても何かしらの力学上の上にしか生も死も存在し得えない。そしてタナトスの根源はこれを回避する欲求なのだ、と。この直感が希薄な人は地上の無制限の自由の存在を信じると思うのですが、無制限どころか自由自体が地上に存在しないんです。地上的限定条件の中の自由を自由の感覚として制約内で楽しめれば充分ああ自由だな、と感じますが、これは自分は自由だ言い張ってるに過ぎず、タナトスの彼岸の絶対自由を感覚上摺り替えながら生きてる訳です。

大平洋戦争はこの自由の神の思想対非自由の神の思想の戦争でした。
そして敗戦は後者の思想を完全に消去しました。
このあたりを最近やっと冷静に見直されて来てる状況が例えば教科書問題などに結びついてます。ああいう言説はあっても良い、、程度に私は捉えてます。

また随分前、新宿の西口である民族主義団体が演説をしているの偶然見ましたが、論説の主旨は、ギリシャ神話を引き合いに出し、塩の人形が海に溶ける話し(涅槃的なもの)をし、日本の神話は、もっとやさしいのだ、だから良いのだとの事でした。演説者の下でダンディーに座って聴衆を見ていた男は、私の勘違いでなければ盾の会の若者の一人ではないか、と思いましたが勘違いかも知れません。この話しの主旨と三島の自決の真の理由には隔たりがあります。
民族思想には物語りが必要です。失った物語りの回復は意味があるのかも知れない。しかし既存の物語りはもう日本人は共有出来ないのではないかと私は思ってます(少なくとも私には難しいです)。
この物語りの再編、アイデンティティーの再確立はまだ始まったばかりです。

                  

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どちらが先に?は諸説芬々ですが、当時の世界情勢の中で、負けはしても日本の開戦の正当性はあると思いますね。
日本があれをしなければ、アジアの世界地図は違う様相を呈してたのは間違いないですから。あの当時白人が黄色人種を見る目は黒人奴隷以下でしたからね。
今も人と場所によってはそのきらいも本音のところであるかな。人種差別感覚って理性を超えた根深さがあります。

ロッド・スチュアートか誰か武道館でライヴをしてる時に(リメンバー・パールハーバー!)と彼が叫び聴衆も別に何も感じない絵柄とか、映画パールハーバーは本国では差別用語丸出しで上映し日本では吹き替えて恋愛映画ですと上手に商売されてるが特に反感もなし、、というメンタリティーは国際政治のせめぎあいから見るとやはり(滑稽)ですよ。

三島は自衛隊をして、自分を否定する者の為に戦い命さえ賭ける事の矛盾を訴えてますが、これって日本そのものが置かれてる現状じゃないですか?

                

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「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真
理》を奪い返さねばならぬ。」
 
 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし
東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反で
あるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題
しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっと
って裁くことができないとはどうしたことか。」
 
 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、
李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でな
いというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負け
たがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力
の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりも
まず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」
 
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごと
く破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社
会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐
裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」
 
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使い
たければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保
条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの
見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」
 
「いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、果し
て正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。げんに英国法曹界の長老ロード・
ハンキーは<パール判事の無罪論こそ正論である>として『戦犯裁判の錯誤』と題する著
書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶し
ている日本においてこの重大な国際問題のソッポに向いているのはどうしたことか。なぜ進
んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・」

  (極東軍事裁判に於いて独り異を唱えたインドのパル判事の言葉)

                  ****************

身体(私)を使役して道心天理(公)を犠牲にして
身体(私)の欲望を満足しては生命を終わるものを小人とする。

小人は一時栄える事があっても死んでしまうと腐爛潰敗して何物ものも残らぬ。

大人(君子)の五体は滅亡してもその心は理と通じて残り、古今に亘って永久に生存する。

即ち七生とは常生(常に生きている)である。

            (吉田松陰の言葉)

                *******************

            

            (注)は議論相手の方々 

*** さん
博学なる知識に満ちた*** 節いつもながら楽しく拝見しました。

     タリバンの義勇兵を志願されたら如何?

いや私の心は半分冗談、半分本気で少々うずいてます(w
しかし冗談にしかならぬのは、政治体制のタリバンに共感する訳でもなく、ビンラディン氏の思想と状況をこの日本のあまりの平和な空虚と重ね合わせて、半分羨望を持ってぼんやり眺め、自分と対比させながらなんだか、放り出された様な諦めが漂ってるからです。日本にぬくぬくと可もなく不可もなく暮らす私とあの状況の可もあり不可もありのビンラディン氏とどういう運命の一貫性の元でこうも違う場所に生きてるのだろう?かと、、。

大江氏の著書は読んでませんが、共感というよりは読むとひどい気分になりそうな気がします。

村上龍氏の「希望の国のエクソダス」という著書の最初の方にイスラムに義勇兵として参加した少年が登場します。それに感化された中学生がITを使い日本経済を救うという物語りなのですが、ラストにはなんだかひどく空虚なしかし成功者の少年の街が描かれて終わります。イスラム義勇兵の少年を最初に出したところがこの作家の真骨頂だと思いました。

     「神」の意向にそっているかなど気にしないですんだからでしょう。

GODとは概念が違いますが日本の文化のある側面ではかなり気にしてると思いますが?今だに建築業などに神主さんは活躍してますし、政財界の一部のトップの人の感覚にはこういう側面は強くありますよ。中小企業の経営者のおやじさんも神棚に礼拝をきちんとして仕事をする人も少なくはないでしょう。三島は明治維新前後の神風連にこの感性の切っ先を見い出して、取り出したのだと思いますが。

     三島の昭和維新の衣を着た行いには結局何の内実もなかったし、彼自身よくわかっていたのではないでしょうか?

***さんの世代の方の意見によくこの論調をみるのですが、なぜでしょう?もっと突っ込むと恐いのではないですか?あれが内実を持つ瞬間が。


>***さん

あの現実感の無さはテロの最初の場面からありましたが、私も映像のせいだろうと思っていたのですが、現場の体験者が口々に現実感の無さを云ってました。ヴァーチャル・リアリティーは純粋に映像と視角の混合の事を云うはずですが、宗教的な側面を持つ事件はいつもこの感じが付きまといます。オーム事件、そして三島事件にもこの感じが漂います。
私はこれ、当事者達に現実感が希薄なせいではないか?と思うのですが、、、。

       三島ならどう思うか、くっきりとした…

見たいですね。おそらく文明論を披瀝した後にあの過酷な状況で物腰柔らかなビンラディン氏の静かな心の洞察と、ブッシュ氏のあの落ち着きの無さと
動揺の心の洞察を鮮やかに名文に料理するでしょうね。

ちょっとニュアンスが近いのは「美しい星」だと思います。

        >*** さん
       自分も含め理解しにくいのは、やはり、一神教の問題なんでしょうね?

この点に関して私がおもしろいと思う事は日本のクリスチャンの方や牧師さんなどを見ているとやはりなんかあの過酷な感じからは遠いのですよ(w
どこか神道っぽい感じの人さえいます。一神教も「日本化」してるわいと勝手に私は思ってます。

       欧米の民主主義はそれを手に入れるのに何人のジャンヌダルクを生み、血を流している。

やはりこれですね。血を見ない思想は肉体化せず観念になりますよ。まあ日本も血はみたんですけど、「勝ち取った」のではなく「負け取った」という、、。まあ無理かつ無謀な注文なんですけど敗戦の瞬間の天皇は日本の歴史上の中でもっとも「神様」らしくなければならなかった瞬間だと私は思ってます。

        >日本人の感情の底流には、そう言う物が流れていると思っています。

同感です。この底流を表現する手段やスタイルを失ったのかなと思います。

         >*** さん
        >無への回帰−三島と、三島事件を考えるからでしょう。

ここでおっしゃている「太虚」を「無」とか「虚無」という言葉に当てはめている点がやはりこの世代の方特有だなという印象を持ちます。
この思想と共に社会が構成されるなら物凄く空疎な、無意味な、三島の言葉で云うなら魂の空白な世界しか生まれないと思いますね。

        積極的な統合イデオロギーを設けないのが民主主義と理解しています。

これは実際にはあるでしょう?何処の民主的な国家や社会にも。
ここで説明されておられる社会はまさに戦後日本社会の様態ですが、これは主体的民主国家というよりは一般によく云われる様に疑似社会主義の状態だと思いますね。戦前の疑似一神教、戦後の疑似社会主義、どちらも疑似という、、、。これぞ中空という奴でしょうか?

        >三島は、天皇には三島が直接つながり、その三島に森田がハートで繋がっているとの
          構図を描いていたようですこれでは、政治的な意味などありようが無く…

私も三島の自決の行為と政治主張は内面で何処まで繋がっているか疑わしくは思っていますが、その主張は真を捉えていると思ってます。
湾岸戦争、今回のテロ、今の日本の現実そのものとしか言い様がない。
あの事件直後の吉本隆明氏の論評に「政治的には見当違いだ」という意見が書いてありました。
見当違いどころかそのまんまじゃないですか?
今の日本の対処は否応無しにそうせざるお得ない力の法則の元に自衛隊を動かしてます。主体的な精神やイデオロギーが憲法にあるなら、これを貫くべきであり、参戦すべきではない訳ですが、そういう事は現実の政治力学上不可能でしょう。
要するに憲法はその理念が現実から宙に浮いてるのは自明のものです。
概して *** さんの意見に見られる様な世代的論調はリアリズムを恐怖している様にしか思えません。もっとしたたかで、ある意味いやらしい政治の詐術としてこういう事をおっしゃてるならそれは寧ろ理解できるのですが、、。

柄谷氏の言論や今活動されてる事などには少し興味があります。
しかし「現実」に結びつくのかどうか私は疑問なので遠くから見てようと思ってます。

>*** さん
ここに書いた通り、私は彼をリアリストだと思ってますよ。
リアリズムの極限は哲学にせよ科学にせよ、まるでロマンスの様に浮き世離れするものです。現実は小説よりも奇なりではないでしょうか?

>***さん
不干斎ハビアンの話、大変面白かったです。
まさしく一神教は非常に「不自然」です。あの一神教的な祈りの瞬間は人間が従属している「自然」を超えようと願う行為です。
私が揶揄した日本の多くのキリスト教の様態とは、この「不自然」をなんだか憲法解釈ではないですけど聖典解釈をして、「自然」なものに落としてめているからです。もっと真面目にやろうとしたら、その苦悩は内村鑑三どころの騒ぎじゃないと思いますが(笑)。

            >今は生活で手1杯です。庶民の一人です。
             国家に軸足を置かれる若いあなたの考えが今一つ分からない−といったところでしょうか?

無論私も生活者です。むしろ一庶民の立場からこの国の不思議や謎を述べているつもりなのですが、、。国と市民生活は軌を一にしてると思います。

             >リアリズムが怖い??何故?

この怖いという言葉はおそらく***さんの子供の世代の人からよく聞きます。自身や同胞の死を賭けても平和、非武装を言い切れるならば私はこれを否定しません。しかしそれは正義でしょうか?

             ある意味で日本においてリアリズムを貫くということは、空想的な無武装の立場を
              世界に例のない、未来的国家のありかただと訴えつづけることでしょう?

これも可能ならば支持しますが、可能でしょうか?
誰もこれを現実的とは思ってないからこそ、世界にきっぱりとこの事を言い切れる政治家が一人も居ないのでは?
社民党の某女史は憲法護持を言いながら中国の軍事訓練を眺めてどういう訳か満足げな御様子。彼女は阿呆ではないでしょうか?自国の非武装を言いながら隣国の武装を喜ぶとは、、、。自分が武器を捨てているのに他人が武器を誇らしく持つなら、私なら怒って注意します。

吉本氏の初期の仕事は私も好きなのですが、三島の見解はその上にあると思ってます。私は年輩の全共闘世代の方とも、もっと上の戦争経験者の方とも懇意にしていただきよく話します。また年下の友人もいますが、とてもいじわるな見方をすると、今の日本の繁栄をこしらえたのは戦争世代の方で、その後の崩壊を用意したのは現在リストラ対象の可哀想な全共闘世代の方に思えて仕方がありません。単に年のせいかも知れませんが、戦争を経験したおじいさん達は右系の人でも調和的な考え方が多く、全共闘世代の方は個人こそ至上のものと思われている為、エゴの強い考えがわりと多いです。

三島は天皇制を「没我の王制」と評しました。

バブル以降の文化が当たり前な私などには、これは新鮮な「新しい思想」です。しかし明解な答えは私にはまだよくわからないので、この様なところで意見を交えさせていただいてます。
人生の先輩の方に僭越な意見を向けた事、私の方こそお詫びします。
しかし、とても楽しかったし学ぶ部分、多々ありました。感謝いたします。

それでは。

                 

                 *********************

ラストに、三島由紀夫のSoulに捧げる詩を



  My Soul   /   Salon d'orange



何故神はこれを創造したのだろう?

この手、足、顔、、私の心、soul、、

私は何を見ているのだろう?


    それでも私は戦わねばならない!

     私の魂を拘束する者と



      人間の罪を着ても、汚名を着ても

       私は私の魂を救済するのだ

        他に神があろうか?

        この魂の奥底に潜むあの衝動以外に‥





私の肉は朽ちるだろう

しかし私は永遠に存在する

深い意識の夢の中で


  この夢を一瞬見せるのだ、この地上に

   この肉に覆われたすべての魂よ、

    これを見よ!

     夢と現実が互いに握手し抱き合うこの時を



         至福と苦痛が、

          恍惚の中で交差するこの美しい夢を

           見るがいい

             私はまた顕われる、  幾度も…








 


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