ミニマル・アートとしての書



ミニマリズム-Minimalismとは70年代以降から80年代にかけて流行をした表現スタイルの総称で、ミニマル=細小単位を織り重ねる事によって、全体を構成させる抽象的芸術運動の事である。
主にアメリカを中心とした運動で、ポスト・モダニズム等の思想運動への関連からも、80年代以降の文化への影響はとても大きい。

私自身、現代音楽の中でもっとも親しんだのは、 Terry Riley, Steve Reichなどのミニマリスト達の作品かも知れない。このアカデミックな芸術運動は、90年代以降の非アカデミックなテクノ系の音楽などにも引き継がれている。

ミニマル・アートの面白さは、細小単位の構造の微妙な変化によって、全体を構成するという、言わば反復の美学にある。反復する、という運動が与える、ある種acidな感覚は、50年代頃から既にカウンターカルチャーに存在していた様な気がする。

小さな単位のパーツが反復しながら変化し、そして全体を織っていく…というこの概念の中核にあるのは、言うまでもなく東洋的宗教思想、特に仏教の概念に古くから存在するパラダイムで、50年代以降の反動主義的なカウンターカルチャーの勢力が目指したのは、このパラダイムだった。

キリスト教的な、創造と終わりまで時間が横軸に移動するパラダイムに対して、縦軸を想定する事によって、絶対的な時間の概念を相対化してしまう事に、この思想の面白さはある。
この概念によれば、最初からすでに世界は終わっており、ゆえに始まり自体も存在しない事になる、という極めてインド的、仏教的思考法が成立する。時間が無限に横に流れる事で永遠が在り得るのではなく、一瞬に、刹那に、のみ永遠が存在するのだと‥。

この様な概念による世界理解の縮小型が、いわばミニマルの基礎概念となる。

それはあたかも、時の粒子、存在の粒子が、織物を織るかの様に全体を成し、世界を世界たらしめている、という美しいロマンティシズムに溢れている。

ユダヤ、キリスト教的な創造主、という被創物に対峙させた造物主の神に対して、言わば存在の細小単位の粒子の事を神(この言葉は厳密には使用されない)とする非常に合理的な思考法である。

ニーチェの大言壮語以来の社会が、この様な合理精神に逆に向いたのは当然な気もする。現代人にとって人間の様な人格神は、どうにも合理性を欠き過ぎて馴染めないのだろう‥。

さて、この細小単位、という事を拡大解釈するならば、書、という表現自体が一種のミニマリズムで有り得ても良いではないか、というのは少々強引だろうか。

概念はともかく、ミニマルの気持ち良さは、そのすっきりとして情念をあまり含まない表現と、合理性と、デザイン自体のシンプルな持ち味にある。
渾沌とした60〜70年代に対して80年代の、空虚でさえある<すっきり感>は、この感覚に主体があったのではないだろうか。
その反動が露骨な90年代を産み落としたとも、言えるけれど…。それでも、その露骨にさえ、80年代の影が存在していた様に思う。

書というのは、表現法がシンプルで繊細であるがゆえに、何度も、同じ線を描いて練習する事で、造型を造る。逆にほんの揺らぎが、その人の微妙な神経、精神、美学を映しやすい。
『書は人なり』などと言われるのは、これゆえだろう。

しかしこれは困った言葉で、儒教的に捉えるなら、書=人格だと言うのである。これは、ある意味恐ろしい考えだ。

『君、字、下手だね…』=『君、人格的に劣ってるね‥』に成ってしまうのだから…。

その様な間の悪さを私はこの言葉には感じる。これが能筆家の奢りから来る言葉だとしたら、何とも嫌らしい限りだ。

しかし、巧い、下手はともかく、その人の情感をその人の書は顕わしているのはやはり事実である。
思わず吹き出してしまう様な遊んだ字を、 立派な肩書きにある偉い人が…、もしくは自分の恋人が…、、、、、というのは、恥とまでは言わなくとも、妙な跋の悪さが残ってしまう。

これに関して、私は幼少の頃の訓練で、いわゆる巧い字を書く能力を身に付けたものの、不自然な字の巧さ自体に、逆に妙な跋の悪さを感じて、なるべく人前で巧く書かない様にしていた…、という屈折した経歴がある。自分の尊敬するミュージシャンなどの字が下手だったりすると、逆に妙に嬉しくなって、その字の下手さに憧れをさえ感じたものである。

その様な屈折を経て思うのは、字は下手でも全然平気だが、しかし、その人の生き方や深い感性の部分では、その人の書く文字の線はその存在の様態を露骨なまでに顕わし、嘘を付けないという事か…。

これは、音、サウンドというものもやはりそうである。訓練という事を抜きにして、その人の所有する音は最初から既に決まっている。まるでその存在の<どうしようも無い運命>であるかの様に…。

つまり、これらの一番深い場所に梃入れをする、という事は生き方、感性に梃入れをする事になり、これゆえ 〜〜道などと呼ばれるのだろう。

さて、ミニマルに話を戻すと、ミニマリズムには、その様なものは含まれない。情緒や感性を合理で塗り固めた美意識なのだから、そんなややこしい話は別に含まれえようも無い。
しかし、、、ミニマルの原形となった東洋思想から来る芸術には、これは濃厚に含まれるのだ。

繊細な話は、必ずこの様な局面を迎え得るのだろう。

反復の美学は、少し横に置いておいて、線の質、その細小単位でのみ、表現を、つまりその人の存在全てを語り得るならこれは、非常に面白い気がする。(と言うよりも、嫌が応にでもそれは既に語られている、という価値のみを抽出する事でもある。)
これは行為する人よりも、むしろ鑑賞者に極端に繊細な視覚を要求する。

この平面に於いては技巧、知識、慣習、文字自体の意味さえも、全て捨ててしまうのだ。
一瞬の質感の美のみで、存在の全体像をさえ計る。
しかし、これは実は、全ての表現の拡大解釈に過ぎず、そんな事を意識せずとも、実は鑑賞者、とは既にそうしている。

その様な表現の些末を捨て去ってすっきりしたもの、というのは、何だか非常に気持ち良い。
技巧のどうこうを抜きにするなら、これくらい捨て去った方が、良いのでは無いか。

音ではこれに近いものを近年よく耳にするが、書や絵画ではまだ見た事が無い。
書の場合にも、もともと内包されている側面とは言えるけれど‥。
しかし50年代以降の前衛書などには、まだ情念が濃く存在していた。

しかし、、、自分でこう書きながら、これを果たしてミニマリズムと呼ぶのどうかは、とても疑問に思う。
まぁ、コンセプトの名前なんてどうでも良いけれど…。

気持ち良さの呈示が、何処か宇宙人っぽくなって行く今日この頃だ‥。







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