スピリチュアル




 スピリチュアル(Spiritual)、というとこれは一般にどんな意味を連想するでしょう? 
スピリチュアリズムには70年代以降のニューエイジ・ムーブメントを用意した霊的な指導者達を想わせる響きもあります。この言葉は僕の心に強い精神主義的な意味を連想させます。
 ジャズのジョン・コルトレーン、ミルトン・ナシメントに代表される様なブラジル音楽、レゲエのボブ・マ−リ−、ジャズ・ギターリストのジョン・マクラフリン、どこか求道的な彼等の様な音楽家はスピリチュアル、という言葉に相応しいのではないでしょうか? ここには信心めいたものではなくて求道的なニュアンスが強くあります。信じて救われます、では無くて、自ら体当たりで悩み、葛藤して掴んでいく姿勢、とでも言えば良いのでしょうか。
 この求道、と芸術が合体した時にとてつもなくスピリチュアルな魂を揺さぶる表現が生まれてくる、という感じがします。信仰というのは人を社会的にも精神的にもスポイルする事があるけれど、求道、というのは何処か痛々しい、過酷な感じがするかわりに、そこから採れる果実の甘みは、ナチュラルで真実な味わいを感じさせます。

 近年の社会問題の核には宗教問題が多く含まれています。少年犯罪他、世間を騒がす残忍な犯罪に見られる様な命の問題、国際政治での宗教と政治の絡みあい、カルト団体の問題、 どれもこの世の境界線にある危ういものが露呈している事件といえるでしょう。
 宗教、神様、という言葉を僕は思わず作品中にも発してしまいますが、実はあまり気持ち良く使用できる言葉ではありません。  
というのも、これらは言葉を越えた普遍性を持つリアリズムの事を指している言葉だからです。言葉で言えないものをどう言ったところでどこか詐欺めいた危うい言葉になるのは仕方がない、といえば当然です。
 この一見危うい言葉の意味を一生かかって真実を込めて表現する事が出来るなら、もしくは出来ないなら、これが表現する者、芸術を志す者、の本懐では無いでしょうか。 
この本懐の無いものは もしそれが絵画ならそれは<デザイン>だし、文学ならそれは<読み物>だし、音楽家ならそれは<楽隊>だし、書道ならそれは<習字>です。 それらを勿論否定するものではありませんが、魂を喜ばせるものとは別のもの、という訳です。
  
 寧ろ最近ではこの本懐を持たない方がポップでお洒落で、という風潮も無くは無いし、変な能書きが多いよりはよほどすっきりしていて良い、という向きも多くはあります。

 僕はこれもとても理解出来る反面、やはり自分が受け手として求めるのは、深い、魂からの言うに言えない<言葉>を言ってのけて見せたモノに、非常に簡明を受けます。

しかしこれに食傷してくると、またすっきりとしたものを求める自分も居るし、野暮くてかっこいい魂の表現などというものには嘘臭さを感じる事も多くあります。

 魂の表現をかっこよく出来る人は非常に稀です。天才とはそういう種類の人でしょうか。魂を露骨に見せてしまうと普通は野暮いものなのです。不格好なものなのです。

 この不格好さを綺麗な美しいものに変えるのは訓練され淘汰されたテクニックと言えるでしょう。
しかしこのテクニックも一つ間違うとテクニックの為のテクニックに成りがちで、何の為の技巧か本懐を忘れがちな方向にひた走る事もこれまた多い事実です。

 本当を言うとこの二つはもしかしたら地上では共存し得ない性質のものにも感じます。

 しかしこれが手を合わせた瞬間、これは強烈な至福を受け手に与えてくれます。

ありえない現実‥、これこそ奇蹟です。
一瞬、地上に居ながら天国を垣間見る瞬間であり、日常の手垢にまみれた心を一瞬引き上げてくれます。

 僕などはこれが欲しくて地上にへばりついて悪戯にウロウロしているという感じです。
一生を賭けて求めるに値するものは、まさにこの<奇蹟>だと思います。

 デジタルと違いアナログの表現は完成してくる域まで達するのには時間が掛かります。
しかし、ここに掛けられる時間の中には常に考え、悩む作業が含まれます。

 この考え悩む作業自体に大いなる意味があります。
これぞ求道、といった感じであり、信じる事ではなく、自ら悩み、体験し、掴み取る事、
これが僕の考えるスピリチュアル、ではないかと思います。

 最近ある雑誌のインタビューでフランスのヌーベルバーグの旗手と言われたジャン・リュック・ゴダールのインタビューを読みました
とても感銘を受けたのでそのまま引用をさせていただきます。
これは単なる映画論を越えた言葉だと思います。

「今日、映画を作る状況は難しくなっています。世の中は変化し、アメリカ文化の画一化が進んでいます。
 私達は映画の世界に自分の場所を見つけるために随分遠くまでいかなければならなくなりました。が、重要なことは、映画を作ることです。たとえ、作った後、それを観てもらえなかったり、配給してもらえなかったとしても。ある程度の人達に観てもらえればいいのです。

 近年、小さなデジタルカメラの出現で誰もが映画を撮ることはできるようになりました。しかし、彼らがカメラの使い方を知っているのではなく、カメラも彼らのために役に立ってるわけではありません。彼らは自分が何を撮るかわかっていると言います。

 たとえばリンゴを撮影するのだと。が、セザンヌがリンゴを描くのと、貴方がリンゴをこの小さなデジカメで撮るとして、貴方が撮影したリンゴはセザンヌのリンゴのようになるわけではありません。このことをはっきり言わなければなりません。
 彼らはただボタンを押すだけで、思考することはありません。これがまさにテレビで起きていることです。鉛筆と消しゴムで誰もがデッサンできますが、誰でもラファエロのようにデッサンを描くことはできません。彼らは多くを思考しません。ただカメラを回すだけで十分なのです。余りにも安易すぎ、危険です。
 今日の世界では銃があれば、他人を殺すことができると考えるのと一緒です。パウル・クレーは『絵画とは、見えないものを見えるようにする』と語っていますが、それこそが映画で、深い思考によって“道具”を使い、映画を作っていきたいものです。」  
 
                                    〜週刊新潮ゴダ−ルのインビューより〜


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